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カテゴリ:思い出( 17 )

「ノッキング」の音

最近聞かないなとふと思った。「ノッキング」ってご存じだろうか。私はマニュアル運転の時、高いギヤのまま低速運転になると、エンジンがカラカラと悲鳴を上げていた音を思い出す。自分で運転していた時は、面倒くさい時はなるべくギヤチェンジを省く。二速発進や三速発進をするとエンジンが「勘弁してくださいよ」と言うようにカラカラと不承不承音を立てながら回っていた。世の中9割以上がオートマ系の変速機になるとノッキングの音さえ懐かしい。

私の家は信号の角だから、青信号で車が曲がる時にギヤを低くしないと、立ち上がりのカラカラという音が家の中でも聞こえた。ノッキングっぽいなと感じると、ギヤを落としてアクセルを空ぶかしして回転を合わせる。何しろ車の力がすっと抜けるから若い時はそんな走り方は容認できなかった。今は町中でタイヤの鳴る音を聞くことは殆どない。直角カーブならタイヤが鳴いて当然という運転はもう世の中から駆逐されてしまったようだ。

随分変わったものだ。何とかマニュアル車に乗りたいと思っているが、いざ買って乗ってみて、足腰と反射神経が着いていかないとなったら辛いな、と二の足を踏んでいる。大阪に住んでいる時は少し走れば、都会を離れるからギヤチェンジは気にもしていなかった。東京ではどこまで走っても同じ都会だ。渋滞がある。マニュアルで気楽に走れる環境ではなくなっている。でも乗りたい。

by zoofox | 2019-04-01 06:02 | 思い出 | Comments(0)

赤バス

朝日が早くなって夕方がだんだん長くなる。春が来る。暗くなってボーッと道を走る車を見ていた。「あ、赤バスだ」、行き先表示が薄赤いバスが通る。

ずっと昔、私は学校も勤め先も「近い」ことを最優先にした。電車かバスで行ける距離、何かあったら歩いても帰れる距離が好きだった。徒歩、自転車、都電、バス、最後が国電(JR)という選択だった。学校と勤務先は同じ地区にあった。当時は時間がある時はバス一本で行ける路線があった。朝はゆっくりバスで帰りは電車でというのが普通の経路だった。

もっと前はどこへ行くにもバスが第一の足だった。田舎から人が来るとき、出かけた家族が帰ってくる時にはバス停で待っていた。今考えると気の長い話だが、私は子供で時間は十分あったらしい。赤バスを実際見たのか話で聞いたのか、子供の時間としてはずいぶん遅く感じた。・・・銭湯の帰りだったのかもしれない。午後8時半か9時ごろが最終バスだったと思う。「青バス」というのもあったな、最終の一つ前をそう言っていたと思う。

会社の帰りにお酒を飲んで、湯島から上野へ歩いて始発の最終バスに乗ると、家から2分のバス停まで送ってくれる。「あっ、最終バスが行っちゃった」という乗り遅れた記憶ばかりだが。

by zoofox | 2019-03-13 05:58 | 思い出 | Comments(0)

同級生

何かがきっかけですっかり忘れていた記憶が戻ってくる。(ああ、そうだったな)と映画を見ているように思い出す。中学校の同級生に左顔面にあざのある娘がいた。何時も左の窓際に座っていたような気がする。残念だが名前も覚えていない。今考えると私はきっと彼女が好きだったのかも知れない。スラっとして端整な顔立ちとセーラー服姿をすぐ思い出す。面と向かっては誰もあざのことは言わないし、当時はそんなことが原因のいじめもなかった。まだ戦争の余韻があり、手足の不自由な人、やけどの跡のある人が町には何人もいた。

何事にも気の利かない私はきっと、(そんなことでいじけているなよ)と思っていたのだろう。本人にしてみれば大変なことだ。声も小さく自分の存在を一生懸命消そうとしているようだった。きっと掃除か放課後のクラブか奉仕活動か、そんなところで声を交わしたのだろうか。髪が奇麗だったのと(結構しゃべると面白いな)という記憶が微かにある。

私は異性を意識するのにはまだ発達が足りなかった。身の回りや友達との遊びに面白いことが多すぎた。一番女の子と付き合う機会が多かったのは中学時代だが、それは後から気づくことだ。未発達の私には表立ったコンプレックスがなかった稀な時期だ。もう少し要領が良ければ、もう少し労力を惜しまずいれば、人生は違っていたかもしれない。

小学校のことは良く憶えているのに、(中学時代は暗黒だったのかな)と自分では思っていた。しかし、単に大きなエポックが多すぎて、学校の生活を楽しみすぎていただけだった。先生、同級生、憧れた人、私の青春(今でも変わらない傾向)はここから始まっていた。中学校の三年間とは多様なくせに何と短い時間だったのか。高校の三年間の方が少し長い気がする。最近の六年間は逆算するとまるで居眠りをしていた様に思える。

私達の進学に備えて中学校はずっと工事中で、校舎もプールも建築中、体育館は高校の体育館を借りていた。プレハブ校舎での授業だった。・・・そういえばひどい時代だったな。やっと新しい校舎に入ったのは三年生の頃だったかな。

by zoofox | 2019-02-20 06:02 | 思い出 | Comments(0)

パブリカ

食事中にエドとマイクの「名車再生」を点けていた。じっくり見てはいなかったが小さな「ボンドカー」だそうだ。詳しい緒元はテレビをよく見ていなかったから分からないが、全体の姿と試乗の走り方を見ていて「パブリカ」を思い出した。タクシーの時代からだんだん庶民が車を持つようになった頃の車だ。当然私の家では車の必要もなかったし、「車を持つ」という想像もしなかった時代だ。

後年免許を取ってから、江戸川の中古車展示場を回ると、今買っておけばよかったなと思うような車がゴロゴロしていた。ホンダの「S600とS800」がホロが破れて15万円位で並んでいた。トヨタのS800もあったと思う。サニー1000クーペが爆発的に売れ、セダンが出て、カローラが発売される前夜だと思う。いすゞのベレットは別格だった。コロナ、ベレット、グロリアなど個性の強い車が沢山あった。スバル1000とバブリカも同時に思い出す。

中古車展示場には数年分の車が一緒に並んでいたのだから、私の印象も発売年に関係なく一律だ。パブリカはその中では中古と呼ぶには新しい部類になる。今の軽自動車とダウンサイジングターボの間に「庶民の車」の場所があった。私にとって、当時(多分昭和40年から50年頃)車は仕事や生活に必要なものではなく、単に「面白いもの」だったはずだ。

ボンドカーを見ていて、あの頃(不格好だな)と思ったバブリカのスタイルが今は「格好よく」見える。1000cc前後で恐らく40~50馬力だろうか、車体が軽いからキビキビと走ったはずだ。叔父さんから貰った「三菱コルト」に友人が乗っていた。友人は力のない車をあまり好んでいなかったようだが、私は自分用の最初の車が「サニー1000」だから、そのしっかりとした造りに感心していた。

パブリカはその後爆発的に売れたカローラの陰に隠れてあまり目立たないが、車のデザインとしては今の「いかにもデザイン」に比べるとほっとする。「1000cc以下、50馬力以下、4速マニュアル」最後はこの「原点」に戻ってしまう。

私の視点から見た感想なので、時代や記載に間違いがあったら失礼。

by zoofox | 2019-02-12 08:44 | 思い出 | Comments(0)

父さんの帽子

父は短軀の人だった。町道場のエースで草相撲の花形だったそうだ。背は低くても胸板は厚く腕は太かった。襟を閉めるのが嫌いで真冬でもシャツをはだけて、胸毛がはみ出していた。何時もにこにことした好々爺の思い出しかない。その父は私がもの心ついた頃には何時も野球帽をかぶっていた。阿弥陀にかぶった野球帽の下でにこにこと笑っている写真がある。晩年は黒い毛糸の帽子を好んで被っていた。妹が就職してから毛糸で自分で編んだものだ。私の記憶では代が変わっただろうが20年くらいは被っていた気がする。

私も父と同じような頭になって、仕事を辞めてからは面倒で丸坊主にしている。私はゴルフ好きで、夏物冬物とキャップを沢山持っていたが、丸坊主にしてみると気持ちはいいがキャップでは寒い。何年か前から毛糸の帽子を赤、黒、茶、緑と各色揃えて、外出の時は上着に合わせて被っていた。父と違うのは、何時もにこにことしてた顔ではいられない性分だろう。

(きっと冬は頭が寒かったんだろうな)と今頃気がつく。外から見て「寒い」というのと実際に「寒い」は少し違う。私は一日中家の中でも毛糸の帽子だ。体の中でも頭は、一番先に汗をかくし、一番先に寒さを感じる。勤めている時は「スポーツ刈り」だった。ほんの数センチの長さが寒さを避けているものだな。


by zoofox | 2019-01-12 06:16 | 思い出 | Comments(0)

蚊帳の中

「浪曲」を思い出したら、一緒にくっついてきた思い出がある。やはり同じ時代だ。私の家は7畳半の板の間と6畳と4畳半の和室、3畳程の小部屋、台所があった。板の間の部屋は商売していた時の「店」の部分だ。3畳の小部屋は、後から押し入れを壊して部屋にした。私が小学校に上がる前は、主に6畳と4畳半に7人家族で暮らしていた。同級生の長屋よりは余裕があるが、人数が多いからやはり狭い。でも昔の家は「無駄な空間」が幾つかあった。廊下の突き当たりの半畳ほどの物置、店から部屋に至る間の通路。子供は小さいから狭さは苦にならなかった。特に通路は両壁に本棚があり、子供が二人隠れて壁にもたれて座れる空間があった。上には棚があったと思う。

夏になるとどこから出してくるのか、母親は6畳と4畳半に緑色と白い蚊帳を吊る。部屋の隅には蚊帳の紐の環をかける釘があったと思う。初めて蚊帳を出す時は大騒ぎだ。暑苦しいのと風が通らないのには閉口するが、蚊に刺されるよりはましだ。多分庭に面した雨戸は開けていたのかも知れない。それでも蚊は入ってくる。子供は蚊帳の端に引っかかって時々蚊帳が落ちてくる。庭には草が沢山生えていたから、ヤブ蚊はどこでも生まれてきた。蚊帳を通してみると家の中が違って見えて、まるで他人の家に行ったような気がした。

蚊帳の思い出は幼児の頃から、扇風機を使うようになるまであるから、かなり長い間だったのだろう。蚊がいなくなったのが先か家を修理したのが先か、身近すぎて覚えていない。最近は蚊も出てこない。

私の記憶の中では、小学校に入る前と後で覚えていることが随分違う。この幼児期に親は忙しいが、祖母がおり兄や姉がいて結構親以外の目も届いていた気がする。保育園も幼稚園にも行かない時代だ。入学前に私は家でひらがなとカタカナを習い、数字を書けるように姉や兄からしこまれた。幼稚園に行っていた子供は、小学校で肩身を狭くしていた少数派だった。晴れていれば目一杯外で遊び、夕飯を食べるとすぐ寝る子供だった。だから蚊帳にくるまって叱られたんだろうな。

今の年齢から考えると、よそ見をしていれば通り過ぎてしまうような期間に、子供は成長の過程で色々なことを覚えていく。夏の蚊帳、冬の豆炭の泥あんかは、そんな記憶の味付けになる。

by zoofox | 2018-12-18 06:01 | 思い出 | Comments(0)

浪曲

ふと何かの所作をした時に子供の頃を思い出す。一つ思い出すと関連して次から次へと思い出は繋がる。その時の周りにいる人達の様子や雰囲気もついでに思い出す。玄関を上がりかかって、(最近、浪曲を聞いていないな)と思い出した。子供時代の楽しみは家族で聞くラジオ番組だった。意外と日曜日の朝NHKで「藤原○○さん」が司会をするクラシックの音楽番組はずっと聞いていた。上の兄姉が学校に行くと私は裁縫をする母の側で、朝のラジオ歌謡やドラマ「ちゃっかり夫人とうっかり夫人」などを聞いていた。

夜は早く寝ていたのであまり記憶はないが、落語と浪曲は父と一緒に楽しみにしていた。広沢虎三が大人気の頃で「森の石松千石船」などは実際に聞いている。覚えているのは、NHKの「のど自慢」で、「浪曲」や「物真似と声帯模写」、「民謡」が大きなウェイトを占めていたことだ。今の予選で規格化されたのど自慢ではなく、マイクの前に次から次へと人が出てきて、どんどん進む面白い番組だった。他にも民放で独立した「浪曲天狗道場」などという番組があった。

真似されるのはほとんど同じ演題、同じ人だ。「旅行けば~(虎三)」、「妻は夫を労りつ、夫は妻を慕いつつ~ 壺坂霊験記(浪速亭綾太郎)」など三、四人の人だから子供は嫌でも覚える。一言唸りだしてすぐ鐘が鳴るから、頭の所だけは覚えている。浪曲というジャンルが一つ独立していた。壺坂霊験記がどんな物語だか私は知らない。

日本人の歌文化に一つの位置を占めていた、浪曲と民謡は今はどうなったのだろう。長い修行を必要とされるものは敬遠される傾向にあるのかな。

by zoofox | 2018-12-17 06:06 | 思い出 | Comments(0)

徳川家康

30歳前後の時、山岡荘八の「徳川家康(全26巻)」を一気に読んだことがある。毎日の出張先のホテル暮らしでは本を読むことは大きな楽しみだった。行く先々の本屋さんで数冊ずつ買い求めては読んでいた。何ヶ月かかったのか記憶にはない。その後何度か読み直したことは記憶している。

しばらく経ってから気が付いたのは結局、「徳川家康の軌跡」を読んだのではなくて、山岡荘八の「思い込み」に共感したのではないのかな。最初からあの時代の武将がこんなに緻密に考え、戦略を立てて生きるか死ぬかの勝負をできたのだろうか、という点は疑問だった。山岡荘八は家康になりきり、自分の考えを家康の生涯を通じて述べていたのではないか。その後は山岡荘八の戦国時代物は、本になっているものはひととおり読んだ。あの凝縮された100年程の時代を歴史絵巻として見るには格好の教本だった。

私は歴史の専門家ではないから、山岡荘八描くところの歴史が正確だったのか否かは検証できない。本が書かれてから60年以上の月日が経って、今では解釈の違う戦国物も描かれている。(あれ、この時この人はここにいないはずだ)というような違いが時折目に付く。どちらが正しいかは、面白ければいいと割り切っている。これは「歴史」ではない「小説」だと、改めて自分に言い聞かせて置かないと間違えてしまう。時代考証、地理的考証、人間関係の考証、時代が近くなる程に、色々な本が書かれる程に諸説が出る。

有名な「人生とは重い荷物を負って、坂道を登るようなもの」というくだりは、文中で読んだような気もするし、別の所に書いてあったような気もする。もう忘れた。この言葉、噛みしめれば思い当たる言葉だ。しかし、「家康の言葉」としてはだんだん年が家康に近づいてくると、(あいつは絶対にこんなことは言わない)という確信に変わる。家康は悲しいことが多すぎて、詠嘆とは無縁の男になっていたはずだ。第一坂を登っている最中に「大変な坂を登っている」とは普通考えない。ずっと後から比較して考えつく類の言葉だ。突っつき所は沢山あるが、こんな面白い小説は読んだことがない。戦争が終わって10年ちょっと、新聞に連載し始めた小説で、山岡荘八は何を言いたかったのだろう。(こんな男が何人かいれば戦争には負けなかった)と思ったのか、もっと別のことか、今読みたいと思っても、手元の文庫本はばらばらになっている。

by zoofox | 2018-12-16 05:32 | 思い出 | Comments(0)

地獄の特訓

首の周りに「ねばい汗」をかいて目が覚めた。まだ0時半だ。何時もの就眠儀式を省いて寝たら、ぐっすりと3時間程寝た。普段ベットの中で目をつむる時間だ。目が覚める直前に、夢を見ていた。もう40年近く前になるだろうか、会社でそろそろ部下を持つ年齢になった社員に「通過儀礼」のような研修があった。郊外のスポーツ施設に一週間缶詰になって、泊まり込みの研修を受けた。私は覚めているつもりだったが、今になってもまだ覚えているのは、やはり「マインドコントロール」だったんだろうな。

睡眠を奪い、大声を出させて思考力を奪い、部屋単位の団体責任で縛ると、容易に人間の心は違う所に行ってしまう。アメリカの軍隊の訓練風景は、ドラマや映画で随所に見られが、身体を使って大声を出させ極限まで追い込むと、興味の方向が縛られ、死ぬことまで恐ろしくなくなるのかも知れない。ともかくそんな研修が流行った時期がある。同じグループで一日20時間程寝食を共にし、一週間も過ごすと何となく「人間」がむき出しになる。狡いか素直か、真面目不真面目などはすぐ分かる。まあ私も見られていた訳だが。

そんなことがあったな、と思い出した。この研修には色々と「後日談」があるが、ごくローカルな話題になるので細かくは書けない。ともかく一週間ぐらいは多かれ少なかれ影響は残った。朝礼でいきなり大きな声で話し出す人がいると、(あいつ、まだ残ってるよ)と夜のお酒の話題の一つになった。毎年同じ時期に繰り返されたが、私が転勤になって以降のことは知らない。

「効果はあったのかな」と考えると、あまりない。人間の根性はそう簡単に思い通りにはならない。ただ、「一日数時間の睡眠でも、一週間は大丈夫」という変な自信は、後日役に立った。

変な時代だったな。

by zoofox | 2018-11-15 01:39 | 思い出 | Comments(0)

樺(かんば)先生

樺先生の最後の講義は、何時もと違う教室だった。大きな教室一杯に学生以外の人も集まっていた、と記憶している。安保反対のデモで娘さんをなくしたことは、授業では一度も発言されたことはない。もう、この講義の内容も定かな記憶ではない。私はかなり前の列にいた。記憶に残っているのは、最後の講義で少し娘さんのことに触れたことと、一番最初の講義で、「私はリベラリストです」とおっしゃったことだ。

この「リベラリズムを信奉するもの」という意味が難しい。「自由主義」で「民主主義」の名前を持つ「自由民主党」は、本来ならリベラリズムの実現者であるはずだ。今の党員はそんな意味も知らないだろう。

「じゃあ何がリベラリズムなんだ」と問われても、耳触りが良い言葉だけに、いろいろな場面で使われ、私には簡単に定義できない。今では前向きにも後ろ向きにも使われる。自由主義社会を「国家の統制に対し、個人が自由に判断し実行する権利を有する」と理解したら、世の中「野放し放牧状態の自由」になってしまう。歴史的にはいろいろな説がある。著書も多い。

簡単に聞いて納得する言葉は多いが、理解して納得することは難しい。だから私には使えない。何か拠り所のない夜、ふっと思い出す。

by zoofox | 2018-09-21 23:49 | 思い出 | Comments(0)