独りの戯言


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カテゴリ:考えること( 41 )

ザ・サークル

エマ・ワトソンとトム・ハンクスが主演するアメリカの映画を観た。(ハーマイオニーも大きくなったな)と思いながら見ていると、出だしは(これはカルトの話かな)と思った。SFに分類されるかスリラーか際どいところだ。粗筋をここでなぞっても仕方ない。どうも「サークル」が、インターネット、SNSが暴走した場合の先行きを示しているらしい。何もかも晒してネットで拡散して「情報を知ることが平等とも違う」という批判にも取れるし、その逆の「情報をもっとクリヤーにすることが民主的だ」とも取れる。情報社会の負の部分を映像化している。

映画を観て考え込みはしないが、思い当たることが多い。隠しテーマは「プライバシーの侵害と尊重」もあるかなと思った。

日頃から、グーグルにしても、アマゾン、ヤフーにしても、事前に幾ら断り書きがあると言っても、人のプライバシーに踏み込みすぎだなと感じている。一度閲覧すると、次からいきなりポップアップの広告が出るのはやり過ぎだ。(使いたくないな)とは思いながら、つい無精してネット通販を利用する。個人のプライバシーはどんどん流れて、どこかに貯められていく。インターネットではもう匿名に隠れることはできない時代だ。そんなことが嫌なら、パソコンはネットに繋がず「ワープロ」や「計算機」として使えばいい、と言われているようだ。

こんな映画が気になったのは、先週から久しぶりにパソコンをいじっているからだ。まずセキュリティソフトを買った。「レッツノート」の中古を1台買った。「12.1インチ i5 Windows10とOffice2016 SSDの500GB RAM8GB」でまあ値頃だった。注文してから、60GBSSD付と5400回転HDD付の「ThinkPad X60」が2台出てきた。SSDの方は未だに充分使える速さだ。よく在庫確認をしないで注文して失敗したが、X60は大きめのSSDに入れ替えることにした。500GBと120GBのSSDを2台ずつ買った。(そら、始まった)。

Windows10は発売に先駆けて無料でダウンロードしたことがあるが、あまりに個人情報を聞きたがるのでずっと敬遠していた。使い慣れたWindows7がじきにサポートをやめるというので仕方なしだ。こんな商売を許しているから、パソコン業界はソフト販売がとんでもない儲かり方をする。だから中国も「オレにもやらせろ」と参入する。

届いたノートは値段なりだ。期待するのが間違いだ。スピードは速い(特別な負化をかけないから当然か)、私の手持ちの方が余程綺麗だ。これもSSDに入れ替えよう。必要な人に分けても1台余る。

こんなことをしていたから、「ザ・サークル」が気になった。「情報の共有」、「人と繋がる」、「個人情報の集積」、「グローバル」、「ファミリー」等々、色々のテーマとキーワードがあるが、1時間半の映画では描ききれない。何となく「やり過ぎはいかん」で終わってしまった。トム・ハンクスが出ているのに掘り下げが浅い。アメリカ映画ではスマホを使う場面でも殆どが電話とテレビ電話だ。日本人とは遣い方が違うようだな。

何事も突き詰めて議論せず、環境を整えずに、「仮想通貨」、「電子決済」、「ポイント還元」という方法が実生活に食い込んでくるのは嫌だな。しかも「電子決済だけに恩典を与える」と言うのは、アニメや映画の世界と同じだ。「下手な考え休むに似たり」ではなくて「下手な考えは日本を危なくする」と思うけれどな。スマホやWEBで拡散されて、日本の良いところがどんどん外国人に食い荒らされたり、今まで見向きもしなかった「盆栽」が高額だと知ると、ごっそり盗む奴がいる。情報の扱いを誤る予兆がもう出ている。「知らせればいい」が間違いだと実生活が教えている。恐い世の中になったな。

by zoofox | 2019-01-18 06:06 | 考えること | Comments(0)

何のために働くのか

今年は「自分の整理」を目標の一つにしたい。ぼつぼつと思い当たったものから順に記録していこう。でも、これは目録というか索引のようなもので、ほんの20分や30分考えたところで綺麗さっぱり整理は出来ない。

あまりに当たり前すぎて、自分は「何のために働く(いた)のか」ということは今まで考えたこともない。このように私には迂闊なことは幾つもある。「働くこと」、「仕事をすること」、「人生を生きること」、完成度はともかくこの世に生を受けた誰もが淡々と行っていることだ。改めてこんな問いを発するのは、きっと私が「何かを確認したい」からだろう。古い言葉で言えば「おまんまを食べるため」と言ってしまえば明快な結論だがそれではあまりにあっけない。

「働くことが好きだ」というのは、いろいろな人がいろいろな所で言っている。私もそう思ってきた。しかし、いざ働き終わってみると(本当にそうかな)という疑問は残る。少しのごまかしと見栄がありはしないか。働くことは面倒でしんどい、その苦行を自分が悠々と乗り越えていけるという幻想を包み隠す言葉ではないのか。私達の時代は誰もが渋々定年まで勤めて、何となくアルバイトをしてやがて年金生活に入る。そんな筋道が当たり前だった。そんな社会では「働かない」という選択肢は隠されて悪いことのような「印象」があった。

私達が「異端」と考えていた「働かない選択」が近年は個人の都合や意志だけではなく、適応障害や親の介護、何となくドロップアウト、仕事そのものの変化という中で、「働けないから働かない」という条件が新たに生まれてきた。もうこうなると私の想定外だ。思わず(大変だな)と思うが、判断中止で立ち止まってしまう。あまりに当たり前で考えもしなかった事項が、実は重大な社会の欠陥を示している、こんなことは沢山ある。今まで考えもしなかったことをちょっと考えてみると、すぐに突き当たる。

専業主婦や自営業という職業がだんだん狭められている。奥さん方は今や誰でも何かしら働いている。単に収入を増やすということだけでもなさそうだ。会社の働き方もいつの間にか「派遣」という言葉が当たり前になっている。代わりに「臨時職(工)員」という言葉が消えた。同時に「季節労働者」もなくなった。社会の階層に「派遣会社」や「アルバイト社員のみの会社」も当たり前になっている。「失業率は落ちている」確かにそうらしいが、恒常的に人手が必要なら、一時的な人手の募集では収まらない筈なのに収めている。多くの人が就業しても個人の満足は遠いものになった。

(そんなに社会は複雑になったのかな)と思うが、そんな兆候はない。誰かがどこかで「今までの方法は効率が悪い」と判断して社会を引っ張っている。ここまで考えると「働く」という言葉が虚しく感じる。私の持論は「働くことで人間は成長する」だったが、これも虚しく感じる。人を成長させられない仕事は本物の仕事でないような気がする。・・・もうこんな考えが通用しない世の中になってしまった。

by zoofox | 2019-01-14 06:05 | 考えること | Comments(0)

君は芥川を読んだか

少年期から青年期に必ず影響を受ける「スタンダードな文学作品」は、今でも健在なのだろうか。芥川、太宰、森鴎外、島崎藤村等々、小学校から中学校にかけてむさぼるように読んで、難解な文字や表現を「大人の入り口」と感じていた。身の回りに最近の子供がいないから、傾向も分からない。

芥川の「蜘蛛の糸」を思い出している。子供の時には「欲張りは身を滅ぼす」程度の教訓と感じていた。今思い起こすと(日本の世情にぴったりだな)、と作品の先見性を感じている。「欲」をテーマとして見るのではなく、「人が階層を飛び越えようとして落後する風景」に見えないだろうか。違う風景も見える。雲の上には既に糸を這い上った人々が居て、(さあ、登って来いや)と野次馬の目で見ている。

もう少し詳しく見ると、(お釈迦様は何のために蜘蛛の糸を垂らしたのかな?ただ善行をした男を助けたいというのはあまりに情緒的だな)という疑問と、雲の上にはお釈迦様の他にももっと他の人も居るのではないか、蜘蛛の糸とは何だ。妄想は次々と膨らむ。・・・お釈迦様は最初は退屈しのぎに遊んでみたがすぐ飽きてしまった。地獄ならぬ人間(じんかん)に垂らした糸の効果はあるようなので、足下をちょろちょろしている人間の一団に「糸垂らし事業」をアウトソーシングし、自分の用事で何処かへ行ってしまった。残るのは糸の下にいる多くの人と雲の上にいる一握りの人になる。

雲の上の人は自分たち優越性を少しでも長く維持するためにいろいろ考える。まず糸に細工をする。よく見ると糸は段々になっている。一番下は細い、かなり登ると「年収500万」という場所があり、糸は少し太くなる。またかなり登ると「年収1000万」という場所がある。ここを越えると糸はもっと太くなる。もっと登ると3000万、という段階毎に糸は柱になり太く階段も付いている。3000万を越えるともう安泰だ。ここまで来ると上の人達の声が聞こえてくる。(ちょっと登ってくる奴が少なくなったから「ポイント還元」でもしてみるか)、仲間に(元気が出るように少し給料を上げてやれよ)とか好きなことを言っている。彼等は自分たちの絶対有利を信じて疑わない。

やがて、お釈迦様が糸を垂らす前より、天と地の人の格差は広がってしまった。お釈迦様は気まぐれで「運のいい、善行を行った心がけのいい人」を救ってやるかと糸を垂らしたが、下請けの人間達はとんでもない制度にして人々の心を荒廃させてしまった。お釈迦様はこの行いに怒って、雲の上の一団も下に叩き落とし、糸を切ってしまった。

by zoofox | 2019-01-08 06:04 | 考えること | Comments(0)

新しい習慣

私は自他共に認める「ケチ」だ。しかし、親戚・友人との付き合い、子供や孫の世代に対する「お年玉」や、「付き合い経費」を切り詰める程ではない。私のケチぶりは、側で見ている人しか知らない。つまり自分に対してケチなのだ。ケチというよりも無駄なことはしたくないと言い換える。人生無駄な物事程、その人の人格の肥料になる。とは気付いているが生まれ持った性分はそう簡単に変わらない。

年末に「風呂開き」をして少しそれが変化した。小さな風呂であるが、その分断熱と保温には気を付けた。洗面・脱衣所を含めて母屋の風呂場と同じ位の広さだ。しかも、私の部屋のドアを開けると、すぐ脱衣所のドアだ。ケチだから自分の部屋のエアコンは22度~23度で使う。食事を減らして脂肪を落とすと、何時になく今年の冬は寒い。上着はノースフェースの防寒ジャンパーを着ている。山でもオートバイでもOKだから寒くはない。家の中と外の区別がなくなっていた。しかし、身体は寒い。

そんな場合はすぐ風呂に入る。以前の風呂のように、湯加減を見て部屋を暖める必要は無い。5分程ボタンを押して部屋を暖めれば、すぐ裸になって入れる。お湯はなかなか冷めない。入ってから「追い炊き」をすれば一日中充分だ。朝食を食べて風呂、昼食を食べて風呂、風呂の中で温まるまで歯磨きをする。お陰で歯がつるつるになった。

マンションにお住まいの方には当然と思われるだろうが、古い家住まいの私には珍しい体験だ。体調を少し崩して、(ガス代や電気代を少々けちっても仕方ないな)と、考えが変わった。もう少し見切りを付ければ暖かい部屋になるのだが、まだケチは残っている。自分でも(少し開放すれば)と呆れている。

by zoofox | 2019-01-01 14:22 | 考えること | Comments(0)

ピンピンころり

朝起きる時間が少しずつ早くなっている。昨夜は11時に寝て、2時半頃に一度目を開け、次に目を開けたら4時20分だった。4時半までベッドの中にいたが辛抱しきれず起き出した。「一応5時間半は睡眠を確保した」と自分に言い聞かせるためだ。自分では知らなかったが「睡眠の質」が変化しているようだ。以前感じていた「レム睡眠」のうとうとが少なくなった。(あまり夢を見なくなったな)と感じているのはそのためかも知れない。医者が「熟睡すると腎臓も休むんですよ」と言っていたが、本当かも知れない。

この朝の半覚醒の何十分かの間に、ブログの内容を考えることが多い。人生の終わりをほとんどの人が、看護されたり介護されたりして過ごす。(今までは全部こちら側からの見方だったな)と感じる。「看護や介護されている人はどう考えるか」、私にはこの視点がなかった。同時に私は(看護はともかく介護はされたくない)とも考える自分に驚く。母は90代の後半、自分と子供達が父親の看護に向けた情熱が、自分のために残っているか否かが気がかりだったかもしれない。姑の年齢を越え我が家としては未知の領域に入り込んでいく時、そりゃあ心配だっただろうな。

結果は数年間を自宅で、その後約一年間の入院、毎日看させて戴いた。「愛情」などという言葉は面はゆくて使えない。始めは当然、「驚きと義務感」だった。毎日病院に通うのが日課になる頃、義務感は少し変わる。(今日はどんな顔をしているかな、何があるかな)という期待感に似ている。時期的にも時間の自由になる人間が側に二人いたのは母に幸いしていた。人徳というのはこんな(運)も含んでいるのかも知れない。

世の中が「人情紙のごとし」と「何でも金ずく」に大きくシフトしている。こんな時代に病気になり被介護になったら私は(もういいな)と思う。「終活」や「断舎利」という言葉をよく聞くが、年寄りにとって一番現実的にしたくないことだ。身の回りの整理整頓と終活は違うと思う。「借金は残さない。物は好きに始末してくれ」。私の場合はこれだけだ。「身の回りを綺麗にして施設に入って逝ってしまう」というのは、イメージとしては綺麗で理想的だ。現実はそうはいかない。「人様に迷惑をかけたくない」、「ピンピンころり」がいい。それもイメージだ。多かれ少なかれ迷惑はかける。淋しさも残す、ピンピンころりとはいかないだろう。

肉親を含め否が応でも、「他人に迷惑をかける」という現実に気が付けば、自ずと今生きている時に出来ることをする。案外簡単な結論だった。結局「出来ることしかできない」ということかな。神ではない身、自分の終わり方も自分では決められない。




by zoofox | 2018-12-29 05:47 | 考えること | Comments(0)

髭の文化

アメリカやイギリスの映画やドラマの中で、「髭」を生やしている人の多いことに驚く。日本では画面の中にはまだ少ないが、スポーツの世界では髭は珍しくない。髭は生やす場所に応じて日本語にも英語にも三種類の言葉がある。「髭(口ひげ)、鬚(あごひげ)、髯(ほおひげ)」だが、ここでは「ひげ全般」という意味で「髭」という字を使わせて貰う。

ベトナム戦争の時まで、戦争の合間の束の間の休息には、シャボンを泡立てて髭を剃る場面が欠かせなかった。髭を剃るのに気分転換の要素があったように思える。私は(まだ、ドロップアウトしていない)と自分に言い聞かせる意味で毎日髭を剃る。最初は「無精髭」だった。(最近髭を剃らない人が多いな)という印象が一つの風俗に変わってきた。アラブの人々が画面に沢山出るようになって、髭は当たり前の姿になった。真っ黒いこんもりとした黒髭はアラブ人の象徴に見える。時には手入れされた髭は(いいな)と見えるが、大部分は私にとっては、暑苦しいし見苦しい。

アメリカのドラマでは戦場や現業職はともかく、普通に背広を着てデスクワークをする人まで、無精髭を生やしている。日本人と違って彼等の髭はすぐ生えるし、猫毛だ。無精髭は何となくだらしなく見える、ファッションと割り切れない。

今は「現象」が気になっているだけだが、もう少し材料を集めて考えてみよう。「髭の文化」の後ろには、匿名性を後押しする「仮面の文化」が隠れているように思える。先のアラブ人は髭だけが目立って、個人の見分けがし難くなる。その上に覆面を被られたら、誰が誰だか解らない。

自分が世界の趨勢に遅れているのか頑固なのかよく解らない。でも気になることは気になる。だからといってそれを排除しようとは思わない。彼は彼、私は私だから大切にする物が違って当然だ。私に「画一化」の思想はない。


※私は髭が似合わない。無精髭は「病み上がり」に見える。そんなひがみかな。

by zoofox | 2018-12-27 05:48 | 考えること | Comments(0)

しんしんと恐いこと

注意して見ているがマスコミには一切登場しない。今月、市民グループが作成した、17都県の放射性セシウムを採取しての「汚染マップが」発売された。四千人の人々が参加して作製したものだという。参加者に私家本として配ろうと思っていたがオーダーが多く増刷を重ねているとのこと。

東日本大震災の原子炉崩壊による汚染は、人間のスパンでは「癒される」ということがない。東京以外に住む場所を持てない者にとって、「逃げればいい」という選択は取れなかった。当初は色々な議論が活発だったが、だんだんと報道の前面には出なくなった。”報道されない”ということが”大きな出来事ではない”と、けして同じではない。昨今では「重大なことこそ報道されない」というのが常識化しつつある。

国の組織が行う「放射性物質のモニタリング調査」は継続して行われているが、私達の目に触れるのは、「表の羅列」だ。不親切この上ない。地名があり数量があるなら地図に翻訳するのは難しいことではないが、そこまでのサービスはけしてしない。

市民の調査は学術的ではないかも知れないが、「事実」に近い。「ホット・スポット」という言葉もあまり聞かなくなった。風や地形による放射性降下物質の貯まり方は距離とは比例しない部分がある。

私が定期的にチェックしているのは、私自身がこのホット・スポットに生活しているからだ。放射能による被害が先か年齢によるものが先か考えれば、一度浴びてしまったのだからどこへ逃げても同じだという諦念が先になる。これを考えると、冬の夜にゆっくりと雪が積もっていくように、心が冷えていく気がする。

by zoofox | 2018-12-26 06:12 | 考えること | Comments(3)

消化試合はない

昨日は「暮れのご挨拶」が届いたらしく、日頃からお互いご無沙汰の親戚の皆さんからお礼の電話が入る。みんな元気でも毎年一つずつ歳は取る。懐かしい訛りが聞こえる。私の年齢は田舎の親戚の間に入ればまだまだ「ひよっこ」だ。厳しく長い冬と蒸し暑い夏、農作業の労働、その中でだんだん専業農家は減っているが、自家や親戚のために米栽培は続けている。生存の親は80才後半から90才代、従兄弟の代が60才代から80才代、縦に長い親戚は年齢もばらばらに引き延ばされている。

女の80才代、男の70才代はまだ「若手」だ。この村に住む人達には、「人生の消化試合」はまだ来ないな。定年になって「老人暮らし」に慣れない私が、年取った振りをしてもだめだ。簡単に「○○ちゃんかい」と看破されてしまう。彼等の頭には「○○さんの息子の○○ちゃん」というインプットがずっと生きている。この身元の知れている「親戚関係」は姻族が入らないだけに、少しずつ濃厚になる。

こんな暮らしが、無性に懐かしくなって「田舎に住む」つもりで、下見をして回った時期もあった。過疎の村は「家付き自家菜園付」でも取引価格はとんでもなく安い。断念したのは(日常労働にもうついていけないだろうな)、という印象と気候だ。今年は雪が遅くて、やっと二度目の降雪が根雪になりそうだ。12月から時には4月まで雪に埋もれて暮らす・・・やっぱり私にはできないな。

離れているから、たまに行ったり会ったりするから良好な関係が維持できる。ということかな。

by zoofox | 2018-12-15 06:26 | 考えること | Comments(0)

雷オヤジ

昔は町内に一人や二人「雷オヤジ」と呼ばれる人がいた。何か不正なことや不正義を見ると誰彼の区別なしに怒鳴りつける。大体は朝早く箒で道路を掃除している。この「誰彼の区別なし」という視点が今の人にはない。自分の損得や斟酌、忖度などがついて回って、行ってはいけない物事自体を叱る人が少なくなった。先生にもいた、会社にもまだいた。そんな社会の子供達は、何をすれば叱られるかちゃんと知っていた。雷オヤジの反応は単純で分かりやすい。小学校も高学年になると、わざと屏のトタン板を棒でカタカタ言わせながら、オヤジの怒鳴り声を期待して逃げる。

私は前後を忘れて他人を怒鳴り、叱ることはできない。何があったかを確認して怒るときはそれから怒る。これでは雷オヤジの資格はない。反応が遅すぎる。

そんなオヤジの誰かがいれば、「柔な世の中になったな」とでも言うのだろうか。フランスはまだ大統領の政策にデモで対抗する気概がある。もともと穏やかだが「革命」を何度も起こしている国柄だ。初期の「宗主国」経験のある国は何事にも強かだ。私には、ニッサンとルノーの戦いは「植民地戦争」の一つに見える。

自分がきちんと生きていないと、他人を叱ることも難しくなるんだろうな。


by zoofox | 2018-12-11 19:37 | 考えること | Comments(0)

新しい年

今日から12月だ。年賀欠礼のハガキもほぼ来尽くしたようだ。お歳暮が届き始める。年賀欠礼も親の代が過ぎて、兄弟姉妹が多くなった。希に本人の死亡を奥さんが伝えるものもある。一度父が亡くなったときに「裳の期間」を調べたことがある。家庭には大きな「冠婚葬祭辞典」のようなものがあって、本来の口伝による世間の一般常識が途切れている家庭には便利だった。あるいは母の購読していた「主婦と生活」の付録だったかも知れない。

忌の期間と喪の期間は、明治の「太政官布告」で定められていた(ほう、「作られた風習」だったのかと奇異に思った)。父母と夫が13ヶ月、妻と子と兄弟姉妹、オジオバが90日(喪の期間)、法律だから細かく決めてある。まるで、就業規程の付則にある「有給休暇の区分」のようだ。しかも時代を反映して「男尊女卑」の傾向が残っている。今はもうない法律だ。

現在では今年中に誰か身近な人が亡くなると一年間は喪に服す、という新しい解釈が生まれているようだ。

在職中は減らしても減らしても、毎年200通ぐらいの年賀状を書いていた。もちろん戴くから出すのだが、二度の定年でこちらも出すのを大きく絞った。ごく親しい人と電話で済まない親戚だけが残っている。一番心に響くのは、年賀状の付き合いをやめてから、奥さんが過去の年賀状から拾い出して、本人の亡くなったことを知らせてくるハガキだ。しばらくは長い空白が一挙に縮まる。年賀欠礼に対する返事は、翌年の1月末から2月に出すはずだったが、正月を過ぎると忘れて出さないことも多い。

年賀状や年賀欠礼の挨拶は無駄なのだろうか。人生の先輩である同居人は、親しい友達を除いてすっぱり年賀状を辞めた。私の場合は親の行っていた親戚づきあいがそっくり相続されて、そう簡単にすっぱりという訳にはいかない。まあ、良いか悪いか損か得か、という問題でもないようだ。「年」と「年度」という二つのスタンダードを日本人は捨てきれない。その意味で一つの節目と感じていればいいのかな。

遠い過去を引きずって先に進むのはしんどい。覚えていられるだけの「近い過去」を抱きながら、前を向いて歩くのが、精神衛生上いいのかも知れないな。

by zoofox | 2018-12-01 05:26 | 考えること | Comments(0)