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カテゴリ:考えること( 63 )

小学生唱歌

「唱歌」というと急に戦前に戻る気がする。学校で習ったのだから「童謡」とは少し違うと思う。ふと、(凄い歌詞があったな)と思い出した。きっと日差しが急に暖かくなったからなのかもしれない。

「朝はどこから」という歌があった。「朝はどこからくるかしら あの山越えて村越えて・・・」うろ覚えだが、結論が「それは暖かくて明るい(輝く)家庭から来る」、今はイメージだけが残っている。「〇〇〇児童合唱団」が歌う分にはさらっと聞けるが、男の先生が歌うと何となく「面はゆい」気がした。多分、歌詞に「希望」だとか「家庭」だとか歌詞らしくない言葉が含まれていたからなのだろう。戦前なのか戦後なのか作られた時期は知らないが、(何となく「めだかの学校」と違うな)と小学生は感じていた。

「シャボン玉」も後年の解説で合点がいったが、小学生が歌ってもその「もの悲しさ」は感じ取れた。「誰が風を見たでしょう」という歌は自分の顔の周りを気持ちよい風が吹き抜けるような気がした。これも大人になると歌詞としては(随分科学的だな)と思う。今考えてもこの問いには容易に答えられない。「風は確かにあるのになぜ見えないのか」子供には重い命題だった。地球の自転とか気圧配置とか何とか説明はできるだろうが、「じゃあ誰が風を見たの」と問われたら、風の影響(影)しか証拠がないことに愕然とする。

うっかりいい加減な説明で逃げて、「じゃあ『幸せ』って何」とか「私たちは何のために生まれてきたの」と畳みかけて尋ねられたら、子供の目を見て「それはね」と満足させる答えが出せるか自信がない。子供は人生の哲学的思考の入り口を垣間見て、子供なりに疑問を感じている。私に子供や孫がいたらこの手の質問は「私にも分からない、一緒に考えよう」とでも言うのかな。

by zoofox | 2019-04-18 06:05 | 考えること | Comments(0)

禿同

昔、インターネットの常時接続がまだ高嶺の花だった頃の話。私はダイヤル回線の接続で「500ボーとか「1500ボー」という接続スピードで時間を気にしながらインターネットに接続していた。「パソコン通信」と呼ばれた時代だ。「チャット」や「ライン」という言葉は当然なかった。同じような機能を「掲示板」と呼ばれるサイバースペースが担っていた。自分の時間の許す時に掲示板に行くと誰かがいて、会話をしたり情報交換をする場所だった。この匿名が透けて見える時代の後、掲示板は大っぴらに悪口や攻撃を交わす場所になって私は離れた。

行儀のいい利用者の間に割り込んできた「アラシ」の人たちの足跡を追っていくと、有名な掲示板に辿り着く。そこで「禿同!」という書き込みが使われていた。「激しく同意」の意味だ。今の時代の「イイネ!」の原型だろう。

今の時代、人様の書いた文章に(その通りだ)と思うことも多い。ほとんどの場合は私は反応せず読むだけに終わる。あるいは控えめに「イイネ!」を送る。ネットやブログに書かれた内容に心を動かされても、積極的に反応しないようになった。そんな付き合いに馴れてきたとも言えるが、ネット上の付き合いの限界も感じているのだろう。だんだん反応表現に「熱さ」が無くなっている。

素直に(この人は私と同じことを考えている。・・・イイネ!)と反応したくても控えてしまう。

夢を売る俳優や歌手が、テレビで病気や介護を報告する。そんな話題は見たくも聞きたくもない。今のテレビはボタン一押しで変えられる。さっさとCSに逃げる。同じようなことを書いておられる人がいた。(禿同!)

by zoofox | 2019-04-17 06:01 | 考えること | Comments(0)

足音

犬や猫は「遠くから主人の足音を聞き分ける」とか「主人の帰りを待って玄関に出ている」とか言われる。動物の聴覚とか第六感として不思議がられる。(最近足音を聞かないな)と気が付く。子供の頃、私の家の横は駅から会社に通う通勤路だった。家の中から、特徴のある足音は聞き分けていた。(あの人が通るから7時45分だな)という具合に。当時の革靴は踵に「鋲」が打ってあり、踏みしめたり引きずったりすると音や癖で個人の識別ができた。兄や姉が会社から帰るとかなり前から音が聞こえた。「○○ちゃんが帰ってきたよ」というと、祖母や母がびっくりしていた。

何のことはない隙間だらけの木造住宅では、戸外の音は筒抜けに聞こえる。そのほかに「気配」も感じていたのだろう。庭に放し飼いの飼い犬は、私が縁側に出ると目の前で尻尾を振って待っていた。散歩のために自転車を動かすと喜んで傍を離れなかった。(人間が動物に近かったのかな)とも思う。窓は素通しで、半紙を目隠しに貼った。家の中にいながら外側が十分見えていた時代だった。

新しい家ができ気密性の高いサッシが入り、人は孤立(プライバシー)を求めるようになる。過渡期には下半分がすりガラスで上は素通しというガラスが玄関に使われた。私の家は家の中から東西が見通せた。台所に小さな窓があって。駅に向かい学校に向かう一本道が見通せた。きっとそこから母は私たちの背中を見送っていたのだろう。

舗装が行き渡り家は壁で囲まれ、だんだん足音は気にしなくなった。「他人に煩わされたくない、他人と関りを持ちたくない」という風潮に日本人が変わったと言うべきだろうか。たまには「コツコツ」という足音も聞いてみたい。私も革靴を止めて何十年にもなる。「背広にスニーカー」が違和感が無くなった。時代は変わるんだな。

by zoofox | 2019-04-16 09:19 | 考えること | Comments(0)

暫定球

ラジオで聞いてWEBで確認した。テレビは食事をしながら見ていた。まだ、タイガー・ウッズのことだ。雨天予想のため早く始めて早く終わったらしい。タイガーの赤いシャツは久しぶりで見た。

40歳を超えた頃だ。「止まっている玉を打つんだから、野球より易しいよ」と、人数合わせの甘言に乗せられてゴルフを始めた。「頭脳はパソコン、運動はゴルフ」で老後まで行こう、と何となく始めた。若いころはともかく腕力は強かったから兄の練習のお供をして練習場で打った時に、容易にネットに届いた。ただ、「回転が強くて曲がる」ことには気が付かなかった。体の力が無くなってだんだん力が抜けると、真っすぐに飛ぶようになった。「力いっぱい振ると曲がる」ことに気が付いたのはしばらくしてからだ。

そんな時に「暫定球」という言葉を聞いた。OBならともかくボールが行方不明になることがある。キャディさんがいなかったり混んでいたりすると、ボールが見つかるまでとりあえずもう一球打って、そのボールでゲームを続ける。ボールは大体見つかるが見つからないこともある。ゲームを途切らせないためのルールだ。私は随分ボールを無くした。

大きな手術の後、河川敷コースに何度か行った。何となく面倒で縁が切れてしまった。ゴルフはスポーツではなく「他人との付き合い」の一手段だと思う。スポーツと取る人、合間のビールが上手いと感じる人、付き合いのために好きでもないのに付き合う人。色々な動機がある。荷物を移動したときに最後のクラブセットを残して全部捨ててしまった。少し柔らか目のカーボンシャフトだけが残っている。

今になると、(ゴルフ行きたいな)と思うことがある。天気のいい日は暑い。冬の風は寒い。動けば暑くなる。気持ちよくプレーできる時期は意外と短い、今がその時期だ。天候との闘いという面は大きい。一緒にゴルフをした先輩後輩がずいぶん減った。仲間内では60歳を超えるとハンデを差し上げていたが、今考えるとそんな心遣いはいらなかったなと思う。

私の人生は「暫定球」のまま過ぎているように思えるな。

by zoofox | 2019-04-15 10:11 | 考えること | Comments(0)

邯鄲の夢

考える時間が沢山出来て、時々(俺の人生は何だったんだろうな)という類のことも考える。別に反省や後悔はない。分岐点の都度、自分で考えて結論を出してきた。それが今に至る。

利益だけが目的のメーカーの仕事をドロップアウトして、「利益」とは関係のない仕事に就いた。自分の仕事人生の四分の三はそちらになる。説明しても世の中の殆どの方々には理解し辛い仕事内容だ。今だったら「NPO」のようなものに分類されるんだろうな。当時は(何とおせっかいな仕事なんだろう)と考えていた。給料は安いし、時間は不規則だし、仕事は自分で作ってプレゼンしてお金を集める必要がある。何もなくてやりがいだけがあった。会社はまだあるのだから詳しいことは書けない。

バブルの頃、自分はバブルとは関係なしにバブルに浮かれる人々を身近で見ていた。一般の庶民まで「高金利」と「右肩上がりの発展」を宗教のように信じ切っていた。頼まれてお手伝いをしたこともある。当時のお金の計算ではかなり無理をしても、収支は成り立ってしまう不思議な時代だった。

あの時代は何だったんだろう、と思うことがある。低(マイナス)金利、すべてが右肩下がりの環境、経済大国だった夢の食いつぶし、国粋主義への傾斜。あの時代はすべて今とは反対だった。別に懐かしんではいない。バブルの渦の真ん中にいる時は(何かおかしいよな)と絶えず思っていた。その後に大きな地震が数回あり、日本は落ち着いた国になった。今は落ち着きすぎて不安がある。滅茶苦茶な「忖度政治」がまかり通り、税金や会社の私物化が問題になる。タンス預金が何十兆円もあり、それを吐き出させるために新札だという説も出てきた。

何か自分はずっと夢の中に生きているような気がするんだ。

by zoofox | 2019-04-12 09:42 | 考えること | Comments(0)

フレットのない楽器

朝起きる前に寝床の中でラジオを聞くようになった。私は長年「目が覚める即起きる」という生活だったので、随分久しぶりの習慣が戻ってきた。(時間を無駄にする)という感覚もいいものかも知れない。

時報の後で、機能性食品のCMともつかぬ話になったので、ダイヤルを回すと、「ピアノ」で歌謡曲からクラシックまで”サラサラ”と弾いてくれる番組があった。その後は30分ほど「長唄」が続く。そしてもう一つ音楽の番組だ。NHKは確かに近年おかしくなった。特に国内ニュースは素人の私が聞いていても(これ変だよな)と思うことが随所にある。さすがに昔ながらの音楽番組にはまだ色がついていない。長唄の楽器は「三味線」と「人間の声」だ。この三味線の音の豊かなことにはっとする。勿論、幾種類かの三味線を使っているのだろう。太棹の野太さが消されて繊細な音に聞こえる。数台の合奏だ。(これ、音合わせは大変だろうな)と思う。三味線のお師匠さんのようにバチを咥えて、キュッ、キュッと演奏途中で弦を巻くとは思えない。弦楽器の調音は音叉や笛で行っていたが、毎日楽器をいじっていると弦ごとに絶対音感ができる。一本が決まれば「音の唸り」が教えてくれる。(フレットのない楽器は大変だろうな)と思う。三味線にしろバイオリンにしろ「指の感覚で音を掴むんだろうな」と思う。これは練習が必要なわけだ、と変なところで納得する。

ピアノが自由に弾けたらいいな、と未だに思う。身近にキーボードが置いてあった時代もある。しかし「ピアノ」の音には叶わない。ピアノも鍵盤楽器とはいえ元は弦楽器だ、弦をハンマーで叩く。どの楽器でも「言葉を話すように」、「歌うように」弾きこなせるのが入り口なんだろうな。他人と合わせるのはもっと難しい。いきなり飛躍だが、「人生もフレットのない楽器と似ている」かな。

by zoofox | 2019-04-10 06:15 | 考えること | Comments(0)

SFの系譜

何かを見つけて文句言うにも、「旬の期間」がだんだん短くなっている気がする。韓国の悪口を言うにも、モリカケ問題を頬かむりして知らん顔をしながらすり抜けようとしている人にも、結局中国の古い書籍に縁があった万葉集の漢文由来の元号にも、会社の金は自分の金だと堂々と遣った人にも、(このやろーに文句を言わなくちゃ)と文章を考えている間に当の事件はすっかり下火になっている。下火と言っても最近の特徴は「何も解決していない」ことだ。「旬の期間が短くて何も解決できない」ってこれ一種の私たちの住む社会の限界現象に見える。民間の活動にはこんな動きと正反対にじわじわとした世界的広がりを見せることもある。

世界的な流行には何か元になるものがある。「SF」=サイエンス・フイクションは日本の発明ではないが、日本発でずっと世界に文化的な影響を与えている。アシモフのロボット三原則をありがたがっていた時代が過ぎて、日本での初めは「手塚治虫」だと思う。手塚治虫はSFの作家ではないが、彼の作品の中には今発表される着想の殆どのものがヒントとして組み込まれている。「ロボット」、「クローン」「Ai」、「ドローン戦争」、「男女の性」、「スーパー医学」、「時間移動」、「輪廻転生」まで、あの時期の着想としては群を抜いている。その影響を受けつつ、日本にはたくさんのSF作家が生まれた。「時間」、「超能力」、「薬にる支配」、「新しい世界への憂慮」、「ロボットと人間の関係」等々、昭和40年代までには今のハリウッド映画のプロットはあらかた出尽くしている。欧米の「スペースオペラ」とは一線を画すものだ。

今、「あきら」と「攻殻機動隊」を時々見ている。「マトリックス」が大ヒットした時に、(これ似たようなもの見たことがあるな)と感じたのは攻殻機動隊を見ていたからだろう。「バイオ・ハザード」の女性ヒロイン(ミラ・ジョボビッチ)が活躍する作品も何故か似ている。CG効果が当たり前になって、アニメやマンガでしか描けなかった世界が、映画に出来る。その意味でこのアニメの影響は凄いなと感じる。日本が外国文化に汚染されているように、日本文化もアニメや日本食という形でじわじわと世界に広まっている。結局、文化が違ってもいいものは形を変えて残る。これが本当のグローバルなんだろうな。日本は加工貿易の国とずっと言われてきたが、加工も行き着くとろろまで行くと「創造」に変わる。

手塚治虫は「アニメ作家」と自称していなかったが、膨大なSFマンガをものしている。平井和正の頃からSFとアニメは切り離せなくなった。後のアニメブームとゲームの大発展にも日本がキーになっている。漫画版は知らないが実写版の「進撃の巨人」をみた。「原爆」、「ゲットー」、「警察国家」、「思想統制」私たちの追い込まれている社会を比喩している。

こうなると手塚治虫が「ジャングル大帝」がパクられても「俺のだ」と声高に言わなかった理由も分かる気がする。誰もが知っているならそれでいい。「お金より文化が大切」だったんだろうな。本来日本人は外国人に理解できないおおらしさがあるようだ。せっかくグローバルの手本があるのに、アニメ好きの大臣はあんまり読んでいないんだろうな。

by zoofox | 2019-04-07 06:15 | 考えること | Comments(0)

「こどな」の世界

別にこんな言葉がある訳ではない。「こども」と「おとな」をくっつけた言葉だ。私は長い間、何人もの子供を見てきた。発達過程には差があるが、10歳を超えたあたりで少しずつ子供と大人が入れ替わる。その変態の経過がいろいろなことを考えさせてくれた。子供と大人が交じり合い複雑な性格を表すことがある。子供が本来持っていない「競争意識」はこの頃生まれるらしい。兄弟姉妹がいれば自ずと生まれる意識だが、友達相手の場合は少し違う。「何処まで友達を突き放せるか」の意識と私は考えている。競争意識は自己と他人を区別する心が生まれないと出てこない。

小学校6年生の運動会で、さっさと第三コーナーまで走った子供が、立ち止まり後ろを見ている。(どうしたんだ)と見ていると、結局遅れた友達を待っていた。理由が分かれば納得だが、大人の意識だけでは「競争の途中で立ち止まる」というのは異常事態だ。その優しさを褒めるべきか、競争の意味を教えるべきか迷った。結局、大人の都合で競争意識を無理強いしないで良かった、と今は思っている。

大人だと思えば子供だし、子供だと思っていると大人だったり、この時期の子供たちには「ゆったりと見守る」ことが大切だと思える。人の心は十人十色だし、「こどなの意識」も項目ごとに入り混じっている。自分の心をそっと覗いてみる。まだまだ私の心には「子供」が生きている気がする。大人が出来上がった自分の価値観で、柔軟な子供の心を縛ってはいけないと思う。

by zoofox | 2019-03-30 08:11 | 考えること | Comments(0)

語彙

「語彙」って言葉を知ったのは何時だろう。「語彙が豊富だ」、「語彙が少ない」と言われても急には増やせない。人間は「言葉」でものを考える。言葉に特定のイメージを乗せて考える。その一つ一つの言葉が「語彙」だろう。自分の持つイメージを的確に他人に伝えるには、語彙が多いほど正確に伝わる。そんなことなのかなあ。言葉にはいくつもの意味がある場合がある。その組み合わせを適当に行わないと、私の考えが他人に伝わらなくなる。伝わっても意味が違ってしまう。

日本語は言葉の数が多い。俄か勉強している英語は割と少ない。少ないから組み合わせで意味を作る。日本語は言葉の意味で覚え、英語は用途のイメージ(慣用)で覚える。豊富な言葉数を自由に操るには「勉強」が必要になる。他人様の文章を見ていると、「この人は表現が上手い」と感じる方がいる。言葉の並べ方と同時に語彙が的確に意味を伝える。書いている方のイメージがストレートに伝わってくる。(どうすればこんな文章が書けるのかな)としばし考える。考えても結論は出ない。糖尿病のHbA1cという指標が「何をどれだけ食べたか」という記録になるように、現れた文章はその人の一生の勉強の記録が反映されている。勉強と言っても「どれだけ本を読んだか」、「それをどれだけ自分の心に響かせたか」、そんなことの蓄積が語彙となり文章になる。文章は意味や主張のほかに、書き手の人生を表す指標にもなっている。だから急に詰め込んでも語彙は増えない。却って俄か勉強の部分は「浮いた表現」になってしまう。

政治家が良く使う「根幹」という言葉が好きで昔はよく使っていた。カビの生えたような古い言葉だ。英語では「fundamental」、「basis」などの語がある。言葉を比べたのは「根幹」のすっきりさに比べて「fundamental」や「base」を同じ意味に使うには、ある程度の絞り込みと修飾をしてやらなければならない。「木の根と幹」なんと分かりやすい表現だろう。古めかしい厳めしいと思っていた「根幹」が非常に素直な直接的表現に見える。

しかし、なんのかのと言っても言葉は使わないと減っていく。私は「言葉はイメージのショートカット」だと思っている。だから、認知されていないカタカナ言葉を、仲間内の気分でもてあそぶのには反対だ。特に政治家は、言葉と理念の商売だから、的確にイメージを伝える努力をしてほしい。その前に「常識」を磨いてほしいな。

by zoofox | 2019-03-27 06:08 | 考えること | Comments(0)

うるるん滞在記

テレビを点けたら出会い頭に「うるるん」の中盤だった。(懐かしいな)と感じる。この番組を見ている時はまだ「グローバル」が声高に言われる前だった。こんなに外国人が身の回りに増える前だった。(今はどうかな)と見て見ると、政治も国境も関係なく暖かい出会いがあった。私は外国人の野放図な増加には否定的だ。日本の大切なものをもっと守れと常々感じている。(何が違うんだろう)と考えると「距離感」に気がつく。「もてなし」にも気が付く。「短期滞在」ならばどこの国もどんな人達とも破綻なく暮らせる。双方が自分のルーツと余裕をきちんと持ち、「滞在させて戴く」という遠慮と尊敬がある。遠慮と尊敬が薄れない距離なら(お互いにそれ以上踏み込まなければ)ウインウインの関係が続けられる。(そういうことか)と何となくしらける。ショートスティの段階を積み重ねて、次の段階に進むというなら、外国人受け入れもスムーズに行くのかな。

珍しい出会いに心躍らせていたのは、「我慢の限界内」の出来事だったかららしい。政治は何と手抜きなことをする。日本は経済大国を滑り落ちながら、まだ経済大国の夢を見ている。「貨幣価値の差が移民を呼び込む」というのはもう過去になりつつある。自国で暮らせない人、一稼ぎして帰ろうとする人、出稼ぎの人を搾取するブローカー、そんな人達を呼び込んでも日本の社会は良くならない。「うるるん」もグローバルなら「移民」もグローバルだ。番組的に言えば、いきなり自分達の村に外国人家族がやってきて自分達の風習を持ち込み、そこ定住すると言い出している。その時には受け入れる方の態度も「我が子よ、良く来た」とばかりは言えないだろう。そんな乱暴なことを政治はしようとしている。

この適当な距離感をだんだん広げる(日本人の許容範囲を広げる)努力なしに、いきなり法改正、さあやれというのは、信じられないくらい日本的ではないな。

by zoofox | 2019-03-25 09:28 | 考えること | Comments(0)